シュツットガルト・バレエ
「オネーギン」( Onegin )


98年7月9日(木) 8:00 PM〜
ニューヨーク、ニューヨーク・ステイト・シアター
振付 = ジョン・クランコ( John Cranko )
音楽 = ピョートル・I・チャイコフスキー( P.I. Tchaikovsky )

オネーギン = イヴァン・カヴァラリ( Ivan Cavallari )
タチアナ = スー・ジン・カン( Sue Jin Kang )


 ヒロインのタチアナは、負傷したソニア・サンティアゴに代り、スー・ジン・カン。

 一幕。おしゃべりしながら裁縫をする母や妹の側で、本を読みながら舞台に寝そべるタチアナ。妹オル ガ(ペネローペ・カントレル)の陽気で屈託のない様子と、東洋の仏像を思わせるスー・ジン・カンのも の静かな文学少女ぶりは好対照。
 その場はセットや衣装の配色が優しくて、若者達が楽しく踊り、とても平和な雰囲気なのだが、レンスキ ー(ウラジーミル・マラーホフ)に連れられたオネーギンが登場するや否や一変。冷ややかで不吉な空気 が、さっと吹き込んできたように感じた。黒髪、黒づくめの衣装、険しいメイクに助けられてはいるもの の、この瞬間の空気の転換ができるカヴァラリはすごいと思った。

 また、ここでは、とても魅力的なコール・ド・バレエ(若者の集団)の動きが見られた。男女のペアが 、フォークダンスでも始めるように手を組んで縦列に並ぶ。先頭はオルガとレンスキー組。この若者たち の列が、舞台の上を上手から下手、下手から上手へと疾風のように連続跳躍で駆け抜ける。とても楽しげ で、彼らが青春を謳歌している様子がうまく表現されていた。

 二場(タチアナの寝室)には、名高い鏡のシーンがあるが、鈍いことに、私はそれまで本に書いてある、 「鏡からオネーギンが出てくる図」が想像できなかった。百聞は一見にしかず。鏡は枠だけで、鏡に映っ たタチアナの影は別のダンサーがやっていたのだった。(だから、オネーギンも「出入り自由」。少し考 えれば分かりそうなものなのに…) この時、タチアナの本体は客席に背中を向けているので、タチアナ の表情は、影役のダンサーが演技することになります。

 鏡から出てきたオネーギン(タチアナの妄想)は、先ほどとはうってかわって表情も好意的。「本当に 、これはタチアナの都合のいい想像なんだ」と感じさせられる。情熱的なパ・ド・ドゥを踊った後、オネ ーギンが鏡の中に消えてしまうと、「本にしか興味がなかった私に、こんな感情があったなんて」という ような驚きの表情をするタチアナ。

 二幕、タチアナの誕生パーティー。春の日差しのように暖かく微笑ましいオルガ/レンスキー組の踊り と、冷たくタチアナを見下したようなオネーギン/そんな扱いに胸を痛めるタチアナ組の踊りが、これま た好対照でおもしろい。

 この幕は波乱のある幕なのだが、オネーギンがタチアナからのラブレターを破くところから、とても 劇的に展開していく。この破き方が半端ではない。オネーギンはちくちくと散々文句を言った挙句、タチ アナの背後から両手を伸ばして、文字通り彼女の目の前で紙片がとても細かくなるまで破り続ける。そし て、「フン」と鼻で笑って、ダメ押し。この光景を見ていて、心がささくれ立った気がした。それだけ カヴァラリの演技が本物だったということでしょう。無残に踏みにじられたタチアナの嘆きを、カンも 熱演していた。

 しかし、ヒロインに同情して心を痛めたのも束の間、次に始まる波乱の予感に、はやくも私の胸は騒 ぎ始めるのだった。レンスキーをからかおうと、彼の婚約者オルガにちょっかいをかけるオネーギン。 一緒に調子にのって、レンスキーを焦らしたり、からかったりするオルガがあまりにもかわいくて、無邪 気なので、結末を知っているだけに何だかかわいそうに見える。「もう見ていられない」という感じ。
 最初はただムッとするだけだったレンスキーも、段々と怒りをつのらせていく。マラーホフは舞台の前面片 隅に立ちつくし、ぎりっと顔を歪ませて、黒雲を背負ったような不機嫌さを表現。彼が怒った顔を向けて いるのは観客席なので、本当に怖くて、私は思わず引いてしまった。

 このオルガ/オネーギンが、パーティーの招待客に混じって踊るところは、テンポの早いワルツで、そ の楽しげな音楽が逆にこの一触即発の危機を盛り上げ、悲劇へと皆を引っぱっていくよう。レンスキーが キレるまで結構長く、しかもこの危うい状態があまりにもスリリングなので、「もうやめてーっ!」と私 は心の中で叫んでいた。実際にはしていなかったと思うが、気分的には「ゼーハーゼーハー」状態。バレ エを見て、こんなにハラハラドキドキさせられたのは初めて。

 レンスキーが手袋を投げたかどうか忘れたが、とにかく事態は決闘へ。レンスキーと彼を止めようとする タチアナとオルガ。姉妹は哀願したり、すがりついたりと涙ぐましい努力を重ねるが、レンスキーを翻意 させることができない。三人による非常に激しく速い踊りは、決してオルガを許そうとしないレンスキー の頑なな心を、巧みに表現している。
 タチアナには別れの挨拶をするのに、オルガはそのままうち捨てて 去ってしまうレンスキー。そして、彼が死に、身も世もなく嘆くオルガの姿は本当に哀れで、痛ましい。 思わず泣きそうになった。
 そして、オネーギンに初めて冷然と接するタチアナと、初めてうなだれるオネーギンの姿が、今後の二 人の関係を象徴しているようで興味深かった。

 三幕、グレーミン大公の宮殿。舞踏会の衣装・セットは、とても優美。
 カンは、とても優雅で気品のあるタチアナ(大公夫人となっている)を好演。大公(マティアス・デッ カート)とのパ・ド・ドゥの最中に、髪飾りが取れかけたようで、彼女は踊りながら髪飾りを抜き取り、 脇に投げていたが、それさえも優美な仕草だったので、まったく踊りの流れの邪魔にはならなかった。

 そして、寝室に忍んできたオネーギンを拒絶する最後の場面。タチアナは今でもオネーギンを密かに愛し ているが、自分を深く愛してくれる夫を裏切ることはできない。また、妹とその婚約者を不幸にしたオネー ギンを許すことはできない。この複雑な心情をどう表現するかが、この役の最も難しい部分だと思うが、 スー・ジン・カンは、彼に見られている時とそうでない時の表情を様々に変えながら、激しく揺れる女心 を熱く演じていた。
 タチアナがオネーギンの鼻先で、彼からの手紙を破くところが圧巻で、泣き出しそうな顔をしながら、 わなわなと震える両手で執拗に破く様は、忘れ難い。
 手紙を破く/破られる立場が二幕と逆転するわけだが、終幕のタチアナは自分の気持ちに反して破って いるので、否がおうにも盛り上がる。
 タチアナは前半は文学少女、後半は大公夫人なので、全般にもの静かで表情などは控えめなのだが、感情 の高ぶりを見せるところが数カ所ある。一幕二場の妄想シーンやレンスキーの決闘を止めようとするシー ンなどだが、終幕の手紙シーンはその中でも最も彼女がとり乱すところだ。かすかな小波すらたっていな かった寺院の池が、大嵐で荒れ狂う大海原に変貌したかのようだった。
 失意のオネーギンが走り去るのを見届けて、くるりと観客の方に向き直り、幕が下がる中で、カンが見 せた顔は、「壊れている」と形容したくなるようなものだった。もちろん「醜い」という意味ではなく、 あまりの辛さとやるせなさの為に顔がどういう表情を浮かべたらよいか分からなくなった、もしくは逆にす べての感情をミックスしたというように、私には感じられた。タチアナの心には愛、怒り、悲しみ、憎しみ 等々の感情が渦巻いているのだが、カンはそのどれかを強調するのではなく、そのすべてを一つの顔で同 時に表現しようとしていたのだろうか。小刻みに震えるその体は、「私はこうするしかなかった。他にど うすることができただろう」と観客に激しく訴えかけているように見えた。

 「バレエ」と単純に分類してしまってよいのだろうか、と悩むほど演劇に近い作品だった。

 情けないことに、振付はほとんど覚えておらず、記憶に残ったのは、その場その場の印象しかないのだ が、踊りや表情・手足だけの表現でこれだけ濃い心理描写ができるとは、と感心した。特に、スー・ジン ・カンとカヴァラリの熱演が忘れられない。

 カーテン・コールでは、主役二人に加え、オルガ役のペネローペ・カントレルとレンスキー役のマラー ホフにも花束が贈呈された。マラーホフは、花束から花を一輪抜き取り、匂ってから、カントレルに捧げ ていたが、普通あれってプリマがするんじゃないのかなあ…。観客にはうけていたけど。

 この日、私の周りは、老人会の遠足のような雰囲気。パフォーマンス中の、「あれはああいうことだわね」 というようなささやき声には、ちょっと迷惑した。真横に座った枯れ木のようなおじいさんは、一人で来 ていたようだが、熱心にオペラグラスを使って鑑賞されていた。こういう人ばっかりだとよろしいんです が…。



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